10日に沖縄アリーナで行われたBリーグ1部・琉球ゴールデンキングスと信州ブレイブウォリアーズの試合後、琉球のアンソニー・マクヘンリーACの永久欠番セレモニーが行われた。マクヘンリー氏は2008-09シーズンから2016-17シーズンまで琉球に所属し、2017-18シーズンから2022-23シーズンまでは信州でプレーしたため、両チームの対戦となったこの日に日程が組まれた。
琉球のチャンピオンフラッグと歴代の永久欠番フラッグが掲げられた沖縄アリーナの天井近くには、この日、背番号「5」の新たな永久欠番フラッグが追加された。
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“盟友”ジェフ・ニュートンの姿も「彼はリーダーだった」
セレモニーには琉球、信州の選手、スタッフが参列。さらに琉球側には、同じく背負った番号が永久欠番となっているジェフ・ニュートン氏(50番)と金城茂之氏(6番)のほか、山城吉超氏や小菅直人氏など懐かしい面々も姿を見せた。マクヘンリー氏の母と妻、子供たちも永久欠番の記念Tシャツ姿で駆け付けた。
初めに安永淳一GMから額に入った背番号5のユニホームが贈られ、家族からは花束が贈呈された。
元チームメートらによるビデオメッセージの後には、ニュートン氏が久しぶりに琉球ファンの前でマイクを握った。盟友へのリスペクトを込め、こう語った。
「マックは本当にリーダーでした。いつも側にいて、いつも僕を助けてくれました。上にあるチャンピオンフラッグもマックのおかげであり、沖縄のバスケットボールカルチャーを作り上げてきた張本人だと思っています。おめでとう」
ニュートン氏はそれまでbjリーグで3連覇中だった大阪エヴェッサを離れ、2008-09シーズンに琉球に加入。地元の米国ジョージア州アトランタで知り合いだったマクヘンリー氏を誘い、チームに紹介した。bjリーグ初参戦だった前年度にウェスタンカンファレンス最下位だった琉球は、2人が加入したこのシーズン、一気に優勝まで駆け上がった。
球団の礎を築いた2人が並び立ち、笑顔を向け合う光景に、客席からは惜しみない拍手が降り注いだ。
優れた人間性を象徴する“エピソード”を披露
ビデオメッセージでは、マクヘンリー氏の優れた人間性を示すエピソードも披露された。以下はその一部である。
友利健哉氏(2007-09チームメート、三菱電機コアラーズAC)
「大阪戦で良くない負け方をして、空港で『健哉、今日はウチに来てくれ。一緒にお酒を飲んで今後のことを語り合おう』と言ってくれました。そこでチームメートが語り合い、お酒を飲んで、次の日から練習が良くなったことを覚えています。マックは今のキングスのカルチャーをつくった最重要選手だと思っています。またお酒飲めたらいいなと思ってます。マック、おめでとう」
山内盛久(2011-17チームメート、三遠ネオフェニックス)
「マックとは7年間一緒にプレーしました。歳を重ねるごとに、当時マックがチームのためにしていた行動や言動がどれほどすごいことだったのか、今になるとすごい分かります。マックの貢献はキングスファンにとって永遠の思い出となり、新たな世代に引き継がれ、沖縄の子供たちにいい影響を与えてくれると思います。本当に素晴らしいことです。もうおじいちゃんなんだから、体に気を付けてこれからも頑張ってください」
伊佐勉氏(2008-17AC&HC、福井ブローウィンズHC)
「キングスの5番はすごく背中が大きくて、永久欠番にふさわしいナンバーだと思います。僕がACの時も、HCの時もすごく助けられた思い出があります。練習中、マックが率先して『次何するぞ』と練習のテンポをつくってくれたことはすごくいい思い出です。これからコーチとして、キングスのサポートをしていただきたいと思います。本当におめでとうございます」
その他、並里成、津山尚大、狩俣昌也、アンドリュー・ランダル、イバン・ラベネル、ディリオン・スニードからもメッセージが贈られた。いずれもマクヘンリー氏のコート内外でのリーダーシップを賞賛し、「影響を受けている」と話す選手も多くいた。
桶谷HC「キングスのHCになってほしい」
コート上でマイクを握り、「沖縄を選んでくれてありがとう」と深い感謝を伝えたのは金城茂之氏だ。自身は琉球創設時からチームに所属し、年間で10勝しかできなかった初めのシーズンについて「僕らは1勝した後に連敗するのが普通で、負け犬の体質になっていました」と振り返る。しかし2シーズン目でマクヘンリー氏とニュートン氏が加入すると、チームは劇的に変化した。
「2人が来て、僕らに勝つ喜びやバスケの楽しさを教えてくれました。2年目で優勝できたことで、キングスのヒストリーがまた始まった。あれがなかったら、この沖縄アリーナも絶対にないですし、未来がどうなっていたか分からない。マックが大きな背中で引っ張ってくれた結果だと思います」
創設2シーズン目での優勝は、元々学生カテゴリにおいてバスケ人気が高かった沖縄を沸かせ、チームの知名度を爆発的に高めるきっかけとなった。マクヘンリー氏は琉球を通算4度のbjリーグ制覇に導き、不動の人気を獲得することに大きく貢献。金城氏が言うように、マクヘンリー氏が琉球に入団していなかったら「(チームの)未来がどうなっていたか分からない」というのは、多くの人がうなづいたことだろう。
マクヘンリー氏と同じく、創設2シーズン目にヘッドコーチとして琉球に入団した桶谷大HCも「本当に偉大な選手でした。マックがいなかったらキングスは成り立っていなかったし、沖縄アリーナはできていなかったと思います」と異口同音にいった。その上で、こう続けた。
「僕は(マクヘンリー氏に)キングスのヘッドコーチになってほしい。みんなで応援しましょう」
アリーナには、桶谷氏に同意するかのように大きな拍手と指笛が鳴り響いた。
7分以上のスピーチ 多くの人に伝えた“感謝”
満を辞して、最後にマイクを握ったのはマクヘンリー氏本人。1日半を掛けて書き上げたという2枚綴りの挨拶原稿を手に、7分以上に渡って英語でスピーチした。
初めに「正直、自分のキャリアがここまで素晴らしいものになるとは思っていませんでした。16年前に皆さんと一緒にここでバスケットボールを始め、今日、皆さんとこうしてこの日を迎えられたことはとても嬉しいです」と述べ、琉球と信州の球団スタッフ、コーチ、選手、家族に感謝した。特にニュートン氏に対しては「沖縄で一緒にプレーしようと誘ってくれたあの一言が、僕の人生を変えたのです。あなたを親友と呼べることが光栄です」と誇らしげに語った。
最後はファンに向けて「(琉球、信州の)両チームのファンの皆さんのサポートがあったからこそ、この日を迎えることができました。素晴らしい応援のおかげで、多くの試合で勝つことができました。皆さんとの思い出は一生忘れません。皆さんの前でプレーできたことは本当に光栄でした。ありがとうございました」と述べ、挨拶を終えた。
と、思いきや、まだ続きがあった。3枚目の紙を取り出し、少し緊張した面持ちで「はっ」と息を吐き出し、またマイクを握った。本当の最後は、自身にとって初めてという日本語でのスピーチだった。
「皆さんのためにバスケットボールをプレーするのは、私にとってとても光栄なことでした。感謝しています。一緒に分かち合った思い出は、私のこれからの人生でもずっと心に残るでした。でしょう(笑)。ありがとうございました」
たどたどしい日本語で、言葉がつっかえる度に見せるお茶目な笑顔が印象的だった。挨拶を終え、四方に深くお辞儀をするマクヘンリー氏に、この日一番の盛大な拍手が贈られた。
記者室でもお辞儀とお礼 取材陣から拍手も
セレモニー後の記者会見では、冒頭で「非常に心温まる、自分が思っていた以上のセレモニーだった。この場を設けていただいた方々に感謝したいです」と改めてお礼を述べた。
質疑応答では、7分以上に渡る挨拶文を事前に用意した理由を聞いてみた。あくまで筆者のイメージではあるが、NBAなど米国の選手はあまり紙を準備してスピーチに臨む姿を見たことがなかったためだ。答えは以下である。
「日本に来てから今に至るまでのことを原稿にまとめようと思い、1日半くらいかけて用意しました。あの原稿に、その間の想いを綴りました。緊張感がある場所でもあるので、(話したいことを)忘れないようにするためもありました」
それだけ思いを伝えたい人、伝えたい言葉があったということだろう。スピーチの締めの言葉を日本語でした理由も聞いた。
「今まで日本語でのスピーチをすることはなかったのですが、日本で過ごしてきたことが特別なものだということを示すために、日本語で話しました。あまり良い挨拶ができるとは思ってなかったのですが、全力は尽くしたと思います(笑)」
会見が終わる頃には既に午後11時を回っていた。それでも試合やセレモニーの疲れを全く見せず、穏やかな表情で丁寧に受け答えをした後、会見終了時には「ありがとうございました」と言い、頭を下げた。取材陣からは、拍手が贈られた。立った後に笑顔で「お疲れ様でした」と続け、またお辞儀をし、会見室を後にした。
「アンソニー・マクヘンリー」という人間が、多くの人から愛され、感謝され、リスペクトされる理由が凝縮したような一日だった。
(長嶺 真輝)