B3の横浜エクセレンスからB1西地区の琉球ゴールデンキングスに期限付き移籍している平良彰吾がBリーグでフィーバー中だ。
当初は、開幕戦で全治2〜3カ月の怪我を負った伊藤達哉の穴を埋めるため、11月13日までの約1カ月間の契約だった。しかし、その後に移籍期間が2025年6月30日まで延長されることが発表され、今シーズンの最後まで琉球でプレーすることが決まった。
自身初のB1の舞台となった新天地で、すぐにチーム戦術に適応し、170cmと小柄ながら1対1で簡単に抜かれないハードなディフェンスや力強いボールハンドリング、勝負強い3Pシュートなどで結果を残したことが、契約延長をつかみ取る要因となった。
これまでB3からB1への“個人昇格”は、愛媛オレンジバイキングスの青木龍史(岩手ビッグブルズ→大阪エヴェッサ)や横浜ビー・コルセアーズの笹山陸(ヴィアティン三重→横浜BC)、琉球の荒川颯(横浜エクセレンス→レバンガ北海道)など事例はあれど、極めて稀なケースだ。しかも琉球のように毎シーズン優勝争いに絡む強豪への移籍となれば、なおさらである。
Bリーグの公式サイトでは「シンデレラボーイ」「B3からB1 努力が花咲く瞬間」などのタイトルで特集動画が流された。Bリーグ全体、そして琉球のファンにとっても驚きの移籍となったはずだ。
学生の頃は世代を代表するプレーヤーの一人だったが、特別指定選手時代を含め、これまで5シーズンを戦ったプロキャリアは決して順風満帆と言えるような内容ではなかった平良。その間、どのように自身と向き合い、何をモチベーションにプレーを続けてきたのか。その過程にこそ、今回のビッグチャンスを手繰り寄せた要因があるのではないか。
11月22日に行われた琉球の公開練習後に実施した本人へのインタビューを通し、紐解いていく。
目次
ドリブル好きになるきっかけはNBAのある“DVD映像”
まず、今の平良のプレースタイルが築かれていった過程を辿る。
千葉県習志野市の生まれ。沖縄県出身の両親の下で育ち、日本リーグでプレーした父・勝利さんは1980年代に沖縄初のバスケットボール男子日本代表に選ばれた名プレーヤーだった。185cmほどある高身長PGで鳴らし、プレーの参考にしていたというマジック・ジョンソンのようにスキルも多彩だった。
年齢が5つ上の彰大さんは先にバスケを始めていたが、「自分はむしろゲームが好きでした。母が僕をお兄ちゃんの試合に連れて行っても、横で寝てるようなこともありました」と、当初は全く興味が湧かなかったという。
しかし、父の転勤で北海道札幌市に住んでいた小学校3年時の冬にミニバスケットボールチームに入り、自身も始めた。明確なきっかけがあったわけではないが、すぐにのめり込む。
特にドリブルを突くことが楽しくて仕方がなかった。小学校5年で千葉県に戻り、印西市に住んでいた頃は自宅にバスケゴールが設置してあったため、家と体育館でひたすらハンドリングスキルを磨いた。
ドリブルに魅了された最大の理由は、兄が持っていた1枚のDVDだ。
「お兄ちゃんがNBA関連のDVDをたくさん持っていて、中でも『ankle breakers』というDVDは衝撃でした。ステフォン・マーブリーやアレン・アイバーソンのようなストリート系の技が大好きで、ひたすら観ていました。小学校6年で身長が160cmあって、チームでは大きい方でしたが、それでもドリブルを多く突いていましたね」
父は付きっきりで指導するようなタイプではなかったが、「ドリブルは強く突け」「パスが緩い」など、同じPGの視点から的確な助言をくれたという。
“黄金世代”で役割を模索、ディフェンス磨く
中学進学と同時に船橋市へ引っ越し、船橋中学校に進学した。チームは強くはなかったが、優れたハンドリングやドライブ力を武器に県選抜に選ばれるなど存在感を高めていった。
同じPGだった兄の彰大さんが市立船橋高校の3年だった2010年のウインターカップで4位に入り、自身も大会ベスト5に選ばれたこともあり、平良も後を追った。市立船橋高校では2年から主力を張り、2014年のウインターカップでチームを3位に導いた。
当時、平良にはもう一つ、プレーするチームがあった。中学3年生の頃から招集されていた世代別日本代表である。八村塁や牧隼利、能見悠仁、平岩玄、ナナーダニエル弾などが名を連ねる黄金世代。学年が一つ上で早生まれの前田悟もいた。U16アジア大会で3位となり、U17世界選手権にも出場した。
後にNBA、B1でプレーすることになる選手が集まる好環境が、現在の評価を勝ち取る上で最も大きな理由となっている高いディフェンス力を磨く要因となる。
「当時、オフェンスは自分で攻めるスタイルが一番やりやすく感じていて、チームオフェンスを組み立てることはあまり得意ではありませんでした。だから代表に入った当初は『自分の役割がないな』と感じていました。そんな時、代表のスタッフだったトーステン・ロイブルコーチから『ディフェンスで相手ガードを追い詰めてこい』と言われ、ディフェンスを意識するようになったんです。もともとハードワークをすることは好きだったので、それを評価してもらい、自分としても『武器になるな』と感じました」
控え選手としてコートに立ち、持ち味の高い得点力やハードなディフェンスで流れを変える。「ベンチスタートで試合に出て活躍することの難しさ、大事さも感じました。どんな状況でもブレずに自分のやるべきことを必ずやる。そういうメンタルは当時から変わっていません」。精神面での強さも増した。
さらに拓殖大学時代には「留学生も当たり前にいて相手選手のサイズも上がるので、簡単にドライブはできない。もっと楽に攻められて、チームに貢献できる方法を考え、3Pを磨きました」とオフェンスの幅を広げた。
怪我で輝かしいキャリアに“影”が…
Bリーグのキャリアが始まったのは2019-20シーズンの途中から。大学4年生だった2020年1月にB2ライジングゼファー福岡の特別指定選手となり、翌シーズンにはプロ契約に。ディフェンスを重視するスペイン人コーチの下で徐々に評価を高め、2020-21シーズンはスタメンを張る試合も増えていった。
「B1でプレーする」。明確な目標に向け、少しずつ前進している感覚があった。その矢先だった。
シーズンの半分ほどを消化した2021年2月にあった佐賀バルーナーズとのアウェー戦。試合中に負傷退場し、右膝外側の半月板を損傷した。当時発表された治療期間は3〜6カ月。シーズンの残りを全休した。
ここから、キャリアに影が差し始める。
福岡との契約は更新されず、シーズン終了後も他チームからのオファーは無し。2021-22シーズンの開幕を前になんとかB3のしながわシティバスケットボールクラブと契約を結び、バスケを継続する場は確保できたが、アルバイトをしながら選手活動をする時期もあった。
「キャリアがなかなかうまくいかず、イライラした時もありました」。その後も1シーズンごとに所属チームを変え、湘南ユナイテッドBC、横浜エクセレンスとB3でのプレーが続いた。
苦境の中で“矢印”を自分に 「父の言葉」も後押し
学生時代の輝かしいキャリアから一転、なかなか思い描いたようなプロ生活を送れない日々。B3で過ごした5シーズン、モチベーションが消失することはなかったのか。
答えは「ノー」だ。
「うまくいっていないことで、もちろん不安は感じるし、メンタル的に落ちる時もありました。でも、B1でプレーしたいというモチベーションがなくなることはありませんでした。思い通りにいかないことを嘆くよりも、その状況を楽しみ、いかに打破していくかを考える方が大事だと思っていました」
八村塁はNBAで自らの立ち位置を確立し、牧隼利は2022-23シーズンに琉球でB1優勝を果たすなど、学生時代に同じ「JAPAN」のユニホームを着たメンバーは大きな舞台で既に活躍していた。嫉妬心が全くなかったわけではない。でも、それも意識的にプラス思考に変換した。
「自分と他人を比較することは負の側面もあると思うので、『刺激を受ける』という部分だけを感じ取ろうと思って、モチベーションにしていました。今の自分と過去の自分を比較した方が人生はうまくいくと思っているので、焦りの気持ちはそこまでありませんでした」
自身が苦境にあることを環境や他人のせいにしても、状況は変わらない。だから、あくまで矢印は自分に向ける。自己研鑽を重視する思考が定着している要因の一つに、日本のトップレベルでプレーした父・勝利さんから学生時代に掛けられた言葉がある。
「一生懸命やってる人の方が、観てる人は感動するんだ」
「上手いと言われる人もみんな努力をしてるんだよ」
日々スキルを磨きながら、拠点を置く関東圏で積極的にB1の試合へ足を運び、親戚に会うために沖縄に来た時は沖縄アリーナで琉球の試合を観戦した。「どうやったら、自分もこの舞台でプレーできるんだろう」。B3に身を置いている間も、常に自身が最高峰リーグのコートに立った時のイメージを膨らませ、自らのレベル向上に生かし、“その瞬間”に向けた準備を怠ることはなかった。
人生を変えるチャンスでも「初心忘れず」
吉報が届いたのは、今年の10月上旬。横浜エクセレンスのチーム練習が始まる前、エージェントからスマートフォンに一本の電話が入った。「レンタル移籍の話があるんだけど…」。一瞬、B3の他チームからのオファーだと思ったという。が、次の言葉に面を食らい、以下のようなやり取りが続いた。
「キングスなんだけど」(エージェント)
「えっ…」(平良)
「まだ話は決まってないけど、自分はどう思う?」(エージェント)
「行かせてもらえるなら、もちろんやりたいです」(平良)
即答した背景には、「沖縄でバスケットをしたいという気持ちが以前からあったから」だと言う。ホームコートが沖縄アリーナという好環境なことに加え、荒川颯は拓殖大学時代、植松義也は福岡時代のチームメイト。「毎年先祖にウートートー(沖縄の方言で、仏壇などに手を合わせること)するために沖縄には来ていたので」と、多くの親戚の前でプレーできることも嬉しい要素の一つだった。
移籍後の自己評価には、手応えと課題感が入り混じる。
「ディフェンスの面では貢献できている部分が多いかなと思いますが、チームディフェンスのやり方や相手のスカウティングではもっと良くしていく必要があると思っています。オフェンスでは、ベンチから出た時にいい流れを継続したり、もっと流れを良くしたりすることができるガードになりたいです」
レンタル移籍の期間が延長され、自身のプロキャリアや人生そのものを大きく好転させる上で「すごいチャンスが来ている」という自覚はある。これを機にB1に定着したいという思いも強い。でも、先は見過ぎることはない。
「まずはキングスのためにプレーし、結果を残して、貢献できる選手になることが今一番大事なことです。評価はそれに続くものだと思っています。シーズンはまだまだこれから。初心を忘れずにやっていこうと思います」
足元から目線を逸らさず、ひたすら自分磨きを続けていく。それこそが、自らのキャリアを切り開いていくための最善の方法だということを、平良は知っている。
(長嶺 真輝)