日本バスケ界の「救世主」となったニック・ファジーカス Bリーグを、日本代表を変えた稀代のプレイヤー
今季限りでの引退を表明した川崎ブレイブサンダースのニック・ファジーカス(中央)©永塚和志
スポーツライター。前英字紙ジャパンタイムズスポーツ記者。Bリーグ、男女日本代表を主にカバーし、2006年世界選手権、2019年ワールドカップ等国際大会、また米NCAAトーナメントも取材。他競技ではWBCやNFLスーパーボウル等の国際大会の取材経験もある。

 「たら・れば」を考えることを、ナンセンスだと考える人はいる。女々しいことですらあると言う人も、中には存在する。

 ただ、それでも、こう夢想してしまう。

 ニック・ファジーカスがブレイブサンダースに、日本に来ていなかったら、と。

 そう思う行為は、とてつもなく突飛なことでもないだろう。それほどまでに、日本のバスケットボール界にファジーカスが登場する前と後とでは、多くのことが変わった。

 JBL時代の2012-13。東芝ブレイブサンダース(現川崎ブレイブサンダース)は、8勝34敗で最下位に終わるが、翌年、ファジーカスが入団すると29勝13敗と成績を一気に上げ、リーグ準優勝にまで上昇した。

 その後、JBLがNBLと看板を架け替えてからの3年間で2度のリーグ優勝を果たし、Bリーグに入ってからも初年度に準優勝するなど、常勝チームと認識され続けた。

 ファジーカスの、日本代表に与えた衝撃を覚えている人も少なくあるまい。2018年。東京オリンピックへの自国開催枠取得もかかった翌年のFIBAワールドカップ出場へ向けてのアジア地区予選で日本は、1次ラウンドの開幕から4連敗を喫する。しかも、5戦目の相手は当時世界ランキング3位のオーストラリア。

 本大会出場が風前の灯となったかに思われた日本だったが、このタイミングで帰化申請が承認されたファジーカスが代表入り。八村塁(現ロサンゼルス・レイカーズ、当時はゴンザガ大)も同時に参加したこともあって、日本はオーストラリアを破ってみせる。

 果たして日本は、このオーストラリア戦から8連勝を収めてワールドカップへの切符を手にし、東京オリンピックの椅子を事実上、確保したのだった。ファジーカスの加入なくしてありえなかった、日本のバスケットボールにおける歴史的な事象だった。

 「人々はあなたのことを日本代表の『救世主』などと呼んでいますが、どう感じていますか」

 同ワールドカップ直前。筆者はファジーカスとの会話で、このようなことを聞いた。するとファジーカスは少しの冗談のトーンをこめながら、こう返した。

 「僕らの目標はワールドカップで1次ラウンドを突破すること。もしそれが達成できたなら、そうだね、僕のことを『救世主』だと呼んでもらってもいいかな」

 ファジーカス、八村、渡邊雄太を擁したチームは日本史上最強と謳われながら、しかし、0勝5敗という無惨な結果に終わった。

 だからといって、ファジーカスに「救世主」の呼称を授けなくていいかと言えば、そんなことはないだろう。もしファジーカスが日本代表に加入していなければこの2019年のワールドカップ出場は難しかっただろうし、となれば翌年の東京オリンピックへの道も断たれていた可能性があった。2023年のワールドカップでの日本の飛躍は記憶に新しいところだが、2つの世界大会の舞台で戦う経験なしに、はたしてそれは成しえたのだろうか……。

 207cmの元NBA選手はやはり、日本代表チームに多大な影響を与えた、偉大な「救世主」だったと考えるのが妥当だ。

日本の「救世主」となったファジーカス©永塚和志

日本代表に“自信”与え崖っぷちからW杯に導いた

 「自分が加わった時の日本代表には自信というものが欠けていた」

 ファジーカスは当時をそう振り返った。日本代表の面々は各々の武器とする長所を生かしきれないほど、相手に対して気持ちの面で後塵を拝していたが、ファジーカスが入り技量でも気持ちでも相手と戦う姿勢を示したことで、チームの空気は変わっていった。

 上述のオーストラリア相手の歴史的な勝利。いずれも両軍トップの25得点、12リバウンドを記録したファジーカスにとっても「その晩はなかなか寝付けなかった」というほど、高揚感の冷めない、特別な試合となった。

 ファジーカスが回顧する。

 「あの夜のオーストラリアとの試合は、間違いなく日本のバスケットボールを変えるものだったし、そこに僕自身が大きく貢献できたと思っている。自分の影響がどれほど大きなものかは周囲の人たちが決めることだけど、僕にとってはすべてがあの夜、変わったと感じているし、それについてはとても充足した気持ちでいるよ」

2018年からは日本代表としてチームをけん引した©永塚和志

 「最初は不安だったんですよ。さえない感じで、歩いて入ってきて。ヨレヨレのネバダ大(ファジーカスの母校)のTシャツに、メガネをして。歩き方は今も昔も変わらずっていうか、確かに大きいけど、得点力のある外国籍選手が来るって言って『この選手で果たして本当に大丈夫なんだろうかっていうのが最初の印象でした」

 2012年。ファジーカスがブレイブサンダースに加入した時の第一印象について、その後、12年間、チームメートとなる篠山竜青はそう述べた。だが、そのアメリカから来た、どこか頼りな下げな風貌と歩き方の選手は、シーズンの開幕戦で「いきなり30点近い活躍」(篠山)をし、ろうそくの火を吹き消すかのように不安を払拭してみせた。

 篠山が、言葉を続ける。

 「すごい外国籍選手がうちに来ちゃったかもしれない」

 篠山、長谷川技は12年、藤井祐眞は10年、ファジーカスとブレイブサンダースでプレーをしてきた。例えば高校や大学でも選手が同じチームにいるのは3、4年だ。近年の移籍の激しいBリーグにおいても、あるいは世界のどのリーグにおいても、10年以上も同じ釜の飯を食うということなど、相当に稀なことであるはずだ。

 篠山はファジーカスと長く一緒にやってきた面々と彼との関係性を「家族みたいなもので、仲が良い、仲が悪いという言葉だけでは表現できない」ものだとした。

 「漫才師っぽく言うと、ある時はとても大好きだけど、ある時は本当に憎いみたいな。そういう本当、家族のような特別な関係性だったと思うし、いろんなやり取りもありました。そんな中でもこうやってニックを中心にブレイブサンダースの歴史を築けたっていうのは自分にとってすごくありがたいバスケット人生……というより人生の経験として非常に貴重な12年を彼と送れたんじゃないかなと思っています」

ファジーカスと12年間ともに過ごした篠山竜青©永塚和志

抜群のシュート力が外国籍選手の底上げに

 NBAでのプレー後、ヨーロッパでプレーをしていたファジーカスは左足首に大きな故障を負い、治療も奏功せず、以来、それとつきあいながらコートに立ち続けた。足首のためにスピードは失われ、身体能力で勝負をすることはできなくなっていた。

 それでも日本で12年もの長い期間プレーをし、38歳の歳まで現役でいられたのは、彼の卓越した技術と高いバスケットボールIQのおかげだったと言ってもいいだろう。

 少年期まではガードでプレーしていたこともあり、3Pシュートやフローター、フック、フェイダウェイシュートと様々な得点方を持ち、またフロントコートを走る味方へ向けての弾丸のようなアウトレットパスも彼の代名詞となった。

 足首のおかげで高く跳躍できないにもかかわらず、リバウンドで毎年、リーグトップクラスの数字を残せたのは、ボックスアウトや位置取り、落ちてきたボールをティップする技術などに優れていたからだ。

 ファジーカスは来日した当初のリーグには自身と同等の実力を持つ選手は少なかったものの、やがてより力量のある選手は増え、リーグのレベルも上がっていったと言う。

 アシスタントコーチとして、ヘッドコーチとして、やはりファジーカスと12年間、同じチームで活動してきた佐藤賢次氏(2023-24シーズン終了後に退任が発表された)は、インサイドのサイズとパワーを生かしたバスケットボールが主流だった日本リーグのそれは、ファジーカスが来たことで変化していったと証言した。

 「あれだけシュートタッチが良くて、うまくて、パスもさばけて賢い選手っていうのが、どれだけ試合に影響力を持っているかっていうところで、それに勝つためにいろんなチームが(ファジーカスに)対抗できるような長身選手、動ける選手を獲得していきました。そこからまたレベルがどんどん上がっていったように思うので、リーグ全体の発展と成長と日本のレベルアップに大きく貢献した選手だと思っています」

やわらかいシュートタッチが持ち味だった©永塚和志

比江島慎「彼がいなくなるBリーグを想像できない」

 5月30日にとどろきアリーナで行われたファジーカスの引退試合には彼の最後の勇姿を眼に焼き付けるべく、満員の4904人ものファンが訪れた。この日だけではなく、Bリーグやブレイブサンダースの人気上昇にともなって、ここ数年はアリーナが埋め尽くされることが珍しくなくなっていた。

 ファジーカスが来日した当初のとどろきは「色」も違えば「音」も違った。そもそも、アリーナが埋め尽くされることなど、めったになかった。今は女性や子どものファンが占めることが通例となっているが、昔は仕事帰りの東芝の関係者がスーツ姿でスタンドに座っていることが多かった。だから、今は暖色の「ブレイブレッド」に包まれるとどろきの「色」は、ずっと黒っぽかった。

 「音」にしたって、そうだ。昔のとどろきでの試合はずっと静かだった。何年か前に、そのような話になった際、ファジーカスは「昔のとどろきは、試合の時でも会場の隅っこにいる人たちの会話が聞こえたりしていたよね」とその時代の同所を見ていた筆者に同意を求めてきた。

 冷静になってみれば、とろどきは今も昔も「体育館」だ。今はそこに様々な装飾を施し、試合ではDJを起用したり音楽を常時かけるなどで、「アリーナ」っぽさを演出しているにすぎない。

 何も特別なところはない。それでも、ここで何百という試合をこなし、そして勝ってきたとろどきアリーナはファジーカスにとってやはり別格な場所だ。

 「ここで多くの良い試合をしてきたし、多くの得点をしてきた場所でもあるから、好きになれないなんていうことはありえない。僕にたくさんの成功をもたらしてくれたところだから、大好きな場所さ」

東芝時代のファジーカス。会場にも空席が見える©永塚和志

 シーズン前に引退を表明した際、ファジーカスは「この決断は悲しいものではない」と話した。それなのに、4月のとどろきでの最後のホームゲームで、そして5月のレギュラーシーズン最後となる横浜文化体育館での横浜ビー・コルセアーズ戦で、彼は涙を抑えることができなかった。

 まだ、バスケットボールをやりたいーー。ブレイブサンダースが逃したプレーオフを見ていて、ファジーカスは自分がまだプレーを続けたいのではないかと自答した。

 しかし、引退の決断はやはり間違ったものではなかったと気づいた。引退試合では40分、コートに立ち続けたが、直後にはメディアに「体が痛い」と吐露した。

 「気持ちが自分に語りかけることと、体が語りかけるものはまた別だということなんだね」

 上述のワールドカップアジア地区予選や同本大会で日本代表のチームメートだった比江島慎(宇都宮ブレックス)は、ファジーカスの引退表明を聞くと「彼が日本のバスケットボール界に与えてくれた影響は計り知れない。中国のワールドカップに導いてくれたのは彼」と述べ、こう言葉を続けた。

 「彼がいなくなるBリーグを想像できない」

 引退試合を用意され、コートとファン、関係者に別れを告げた。それでも、ファジーカスという日本バスケットボール界の稀代の選手のいない世界を、想像できない。

(永塚 和志)

引退試合でプレーしたファジーカス©永塚和志

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